
波乱含みの東京オリンピックが開催されようとしています。
同大会は、これまで沢山の問題を抱えていました。
エンブレムが盗作なのではないかという疑惑と混乱に始まり、新型コロナウィルス感染症問題を抱えながらも開催しないわけにはいかないというオリンピック組織委員会。
東京オリンピックはただ「やりきる」ことだけが目的になりつつあります。
やること。やりきることは、ビジネスにおいてもとても大切ですが、ただ「やりきる」だけが目的になってしまうと、色々なことが置いていけぼりになってしまいます。
今回のビジポコは、東京オリンピックをテーマに、とくに本日行われる開会式を議題にしながら、新規事業においても重要な「やりきること」「判断すること」についてお届けしようと思います。
【ビジポコの学び】
●事業者の都合ばかりで考えると行き詰まる
●夢を大切にする
●価値基準を参加している人に置く
●理念や理想を守ろう
●できる限り外側に判断基準を持って行く
デザイン思考で考えると、さてどうなるでしょうか。
もくじ
小山田圭吾氏のいじめ告白問題
20年近く前から小山田圭吾の“いじめコピペ“は出回っていました。小山田圭吾が雑誌で告白した中学時代のいじめは、見るに堪えない内容で、何度も炎上をくり返しています。
ただ地下で延々とコピペが受け継がれてきたのみで、表のメディア(テレビや雑誌)などでは扱われず、wikipediaにも記載されてはファンに消される、をくり返してきました。
表にはあまり出てこなかった話題なので、組織委が小山田氏の過去の悪行を知らなかった、というのは、ある程度は理解できます。
もちろん、同級生に対し、えげつない加害行為をくり返していた小山田氏の行為はゆるされるものではなく、該当雑誌の告白を読んでいるだけで気分が悪くなります。
組織委の対応が問題
しかし、問題は組織委の対応です。組織委は小山田氏の問題を受けて、会見で
「開催日まで日数が少ないので許してもらえると思った」
と答えています。(参照:毎日新聞) これが大きな問題だとビジポコ編集長の河上は指摘します。
「時間がないので続投で許されると思った」は、開催側の都合でしかないのです。そして、開催側の都合で話を進めると必ずどこかで行き詰まってしまいます。
「新規事業を考える際も同様で、事業者の都合ばかりで考えると、かならずどこかで行き詰まりを起こします」と河上はいうのです。
事業者の都合ばかりで考えると行き詰まる、は実はあるあるだそうです。
反面教師にしたい
新規事業開発では「自社の強み」を無理やり使おうとすると、事業者の都合という底無し沼にハマります。自社の強みは、既存のビジネスを進めるうえで得てきた”特徴”でしかありません。その特徴を無理やり、新しいビジネスに適応したところで、お客様にとって役に立たなければ何の意味もありません。
例えば飲食店のみなさんはコロナ禍で大ダメージを受けています。素敵な雰囲気の店舗に、最高のスタッフさんがいることが自社の強みだとしても、Uber eatsで配達されてしまえば顧客にはその強みは伝わりません。
無理に店舗を使おうとしたり、無理にスタッフに直接運ばせるために独自のアプリを開発したりしてもお客様からすれば独自アプリに気がつくことすら困難です。事業者の都合とはかくも顧客にとって役に立たないものなのです。
「開催日まで日数が少ないので許してもらえると思った」
この言葉が意味する本心は理念の実現を優先するよりもとにかく大会の実施を優先する日本の組織委員会の都合が優先されているように聞こえます。これでは、オリンピック大会の理念や選手が置いていけぼりになっています。
オリンピック競技も新規事業も同じで、どちらも具体的に行うコト、競技や、提供するサービス・製品はあくまでも理念や価値を提供するための手段でしかないと、はっきりと認識することが重要です。
手段が目的の実現にとって適切でなければ冷徹に切り捨てる。日本人が苦手な手段と目的の混同をしない。我々が民族的に苦手だからこそ意識的に目を配るべきです。
そうして【夢や理念を大切にする】ことで、実現手段をブレることなく、そして悩むこともなく選んでいけます。
開会式は開催側の自分たちの都合ばかりになってしまっています。これは、大会を開催せなければならないと命じられた優秀な人だからこそ、気が付かぬうちに視野狭窄になりはまった泥沼なのでした。
小林賢太郎氏の解任も、同種の問題
開会式前日には元ラーメンズの小林賢太郎氏がホロコーストのユダヤ人虐殺をコントのネタにした20年前の動画が拡散し、こちらは即解任となりました。
小山田圭吾氏は「自ら辞任」で、小林賢太郎氏は「組織委が解任」です。
この違いは、おそらく小林氏の方は、ユダヤ人差別を監視する団体から非難声明がでたため、あわててクビを切ったのだと推察できます。欧米人の価値観からすれば、完全なタブーでした。
混迷を深める東京オリンピック。
何をどうすればいいか、もうわからないぐらいめちゃくちゃになっていますが、【価値基準を参加している人に置け】ば、ゴタゴタはありながらも、前には進んでいくのです。
とはいえコーネリアスもラーメンズも、ファンが多いアーティストです。作品が良いと思われているから、起用にいたったのでしょう。ただ「作品がよい」は誰にとって良かったのか? スポーツ選手にとってなのか、国威発揚なのか、それとも組織委にとって都合がよかったのか、、、その「良い」の基準が内向きでしかなかったのではないでしょうか。
森元会長の時はまだあった理念と理想
思い起こせば、森元会長が女性蔑視発言をして辞任になったときは、まだオリンピック憲章にふさわしくないからという前提が存在しました。【理念や理想を守ろう】という考えが読み取れたのに、「時間がないから」では、判断基準がぶれています。判断基準がぶれると、外部の人はもちろん、内部の人もついていけなくなり、組織やチームは崩壊します。
選ぶときはなるべく外側に基準を持って
新規事業の検討とは、お客様にとって価値がある・実現できる・儲かる、の3つの円の重なる部分を探す活動に他なりません。
そのうち、「価値がある」の部分が、今回はすっぽり抜け落ちてしまっていたのではないでしょうか。相手にとっての「価値」が抜け落ちることは、実は新規事業で頻発することなのです。
我が社にはこれができる。今後のビジネスはこの領域が伸びる=儲かるらしい。これは完全にお客様を蔑ろにした考え方です。できることから出発しても良いのですが、お客様を置いてきぼりにしてはいけません。営業時に全く売れず、新規事業検討担当としてはクビになりかねません。
【何かを選ぶときは、できる限り外側に判断基準を持って行く】のが一番です。内向きの選定をしないこと。今回の件も社会から遠くオリンピックにも無縁でもっとも傷ついているはずの小山田氏の同級生という外側の存在を基準にすれば、こんなことにはならなかったのではないでしょうか。
人格と表現は分けられる?
さて「モーツァルトも人格破綻していたのだから、作品と人柄は分けて考えるべき」という論考は存在し一理あります。
しかし「その考え方に普遍性があるでしょうか」と編集長河上はいいます。「人類史上最悪のヒトラーは、絵描きとしてはそれなりの絵を描いたとされますが、今、ヒトラーの絵を売買することはできないのです」と。
人格とアウトプット分けるという考え方は、時と場合によって変化するのです。そうであればこそ、今回の件も、今回の時と場合によって判断され、アウトになったのです。このように曖昧なことを判断基準にするのではなく、理念や、お客様を判断基準にすることでブレることなく物事を進められます。
ビジポコの学び
心が痛い問題です。
しかし、学ぶことは多くありました。
●事業者の都合ばかりで考えると行き詰まる
●夢を大切にする
●価値基準を参加している人に置く
●理念や理想を守ろう
●できる限り外側に判断基準を持って行く